life×art interview

造化自然。花を生きる

慈照寺 花方教授 珠寳さん

 

  銀閣寺の名で親しまれている東山慈照寺は、室町時代に足利義政公が造営した東山山荘が始まり。

 乱世から距離を置いて簡素枯淡の風趣を楽しんだ足利義政公のもとで、和室の様式や茶、花、香の文化が育まれ、日本の美の規範となっていった。花方教授の珠寳さんは、慈照寺ゆかりの無雙眞古流(むそうりんこりゅう)からいけばなの源流をたどり、室町に花開いた東山文化をひも解きながら、義政公が愛した花とこころを伝えている。

 

  日々のすべてが花をするということ

 

 珠寳さんは、慈照寺の花方教授として義政公時代の花を復興している注目の花人である。 

昨年暮れに神戸・ギャラリー島田で開かれた「花サロン」で、珠さんの「たて花」の献花を拝見した。香をたいて、清められた空間に珠寳さんが座ると、凛とした気がみなぎった。用意した花材から心に響いた花を選び、無駄のない所作で枝葉を整えて、花を立てていく。プロセスそのものが美しく、心がふるえた。 

「根から切り取られた命を再びきらきらと輝かせるために、花のこえを聞き、それぞれを自然のままに響き合わせます。そこは我のない自由な世界なんです」

 珠寳さんの一日は、義政公の持仏堂だった「東求堂」(国宝)で阿弥陀如来と義政像に朝のごあいさつをすることから始まる。「いのちをいただいて、ありがとうございます」。ただひとこと、今ここにあることの幸せに感謝する。 

朝日の差す境内を掃き清め、裏山で花材を切り、研修道場の玄関に花を立てる。道場でいけばなの講座がある日は奉仕方の人たちと準備を進めて花を教え、また畑仕事や事務仕事も行う。 

毎年、フランスや香港などで慈照寺の国際交流プログラムを実施して、さまざまな場所で献花を行い、東山文化を伝えることも大きな役割の一つだ。 

 「そのすべてが私にとって花をするということ。最近になってやっと、スタートラインに立てた気がしています」


     「慈照寺の花」を求めて

 

  神戸生まれの神戸育ち。

 ごく普通の生活をしていた珠寳さんは、阪神・淡路大震災をきっかけに、花に導かれていった。 

「当時住んでいた芦屋の自宅は全壊。幸い家族に怪我はありませんでしたが、一瞬のうちに人の生死が分かれ、目の前にあったものがなくなって呆然としました。やっと生活が落ち着いてきた頃、心にぽっかりと穴が空いたようになって、それまで気にも留めていなかったいけばなのことが、なぜか気になりだしたんです」 

曽祖父が慈照寺第19世住職を務めていたご縁で、慈照寺ゆかりの無雙眞古流でいけばなを習っていた珠寳さん。「古い流派と聞いてはいたけれど、どれぐらい古いのか、どう古いのか、あらためて知りたい」と思ったが、詳しいことはわからなかった。たまたま花鋏を買う店でこの人しかいないと教えられたのが、花人の岡田幸三氏。古典花道の研究家で、昭和を代表する花人の一人だった。 

 

安土町の宝泉坊に住まう岡田氏のもとに通い始めたのは、30代の初め。 

「最初は掃除と水汲みのようなことばかりしていました。電気も水道も通っていない庵で、朝、山水を汲みに行き、おくどさん(竃)に火をつけて、鉄鍋で湯を沸かすところから始まるんです。裏山に竹を切りに行ったり、竹筒の油出しをしたり、その時は何を教わっているのか全然わかりませんでした。でも後から振り返ると、花をするために必要なことを全て教えてもらっていたんです」 

師がなくなるまでの9年間、そばであらゆることを見て感じて、花の世界にのめりこんでいった。 

無雙眞古流は、江戸時代中期に豊前国(現在の福岡県から大分県にまたがる地域)で創流した流派。室町時代の足利義政公を流祖として仰いでいた。岡田氏のもとで日本の花の精神を学び、東山文化について知るために慈照寺を訪ねて古い伝書を調べていくうちに、自分の中に少しずつ軸ができあがっていった。

 

    100年先に点をつないでいく

 

  無雙眞古流の歴史を整理し、義政公時代の花の必要性をまとめたレポートを当時の慈照寺執事長に提出したことから有馬賴底管長との面会がかなう。有馬管長はレポートにさっと目を通し、その場で「慈照寺にとって大事なこと。進めなさい」と、珠寳さんにお墨付きを与えた。 

 平成16年慈照寺に華務係が設けられた折に、珠寳さんは初代花方に就任。坐禅と同じ目的で開かれた花道場で「慈照寺の花」を担当することになった。平成23年には東山文化を継承する研修道場が誕生し、花の指導とともに道場の企画運営にも携わっている。 

 「義政公が理想とした花って何だろう。最初は、自分が目指している山がどれほど高いのかわかっていませんでした。いまだ至っていませんが、頂上がどこかさえ間違えなかったら、いつかたどり着けるだろうと思っています。文化というのは50年、100年単位の時間の捉え方を持っていないと到底できません。時間に追い立てられるような世の中でそれをさせてもらえるのは幸せなこと。関わっている私たちはそのつなぎの点です。次の点につなげるために、今できることを淡々と一生懸命続けていきたい」

 

   一視同仁のこころ

 

  義政公が晩年多くの時間を過ごした東求堂には、「同仁斎」と呼ばれる四畳半の小間がある。美の求道者だった義政公はここで茶や香を楽しみ、花を飾り、身分の別なく文化・芸能に秀でた町衆と交流していたという。 

 

 「同仁斎の名は、『聖人一視而同仁(せいじんいっしどうじん)』(韓愈)にちなんだ言葉。聖人君主たる者、一視にして同仁し、生きとし生けるものを分け隔てなく同じように視るという意味だそうです。義政公が理想とした同仁のこころから、茶や花、香の礎が育まれたのだろうと思います」 

側近の同朋衆によってまとめられた『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』や『御飾記(おかざりしょ)』には、座敷を飾る掛物や道具の分類、目的に合わせた座敷の飾り様が定められている。座敷飾りのひとつだった花にも約束事が決められていった。 

 「『君台観左右帳記』の絵図には、瓶に一枝すっと立っているものがあります。観音様のかたわらの瓶に一本立つ楊柳の影響か、豪華な飾りの花より一瓶の花を眺めるのを好んだ義政公の趣が反映されたのでしょうか。神仏に花を供えて荘厳(しょうごん)する行為が、儀式や室内装飾の花として人の暮らしに取り入れられるようになり、次第に洗練されていけばなへ発展しました」 

 いろんな流派が生まれ、理論や技法は時代とともに変化してきたが、「大事なことは花をする人の胸の覚悟」と、珠寳さんはいう。

 

         花=わたし=あなた

 

           (山茱萸、しゃがの葉、馬酔木、赤松/たて花)

 

 花瓶の水際からすっきりと立ち上がる草木が、凛として、清々しいオーラ(いのちの輝き)を

放つ。 

 昨年、出版された珠寳さんの本「造化自然―銀閣慈照寺の花」の撮影にあたった写真家のみなもと忠之さんは、珠寳さんの花を初めて見た時、「背筋がぞくぞくするような衝撃を受けた」という。それは珠寳さんの花に込める覚悟から生じるもの。

 

 「花の前では、自分自身が余分なものを脱ぎ捨てて裸の心にならないと見透かされます。目の前の命が松なら私も松、バラなら私もバラになる。自分のデッサンに花を当てはめるのではなく、ただ造化に従って、主役となる真の枝、脇役のそえ草、下草となる草木を、調和を取りながら立て下ろしていきます。草木が持っている天然の姿をいかして、立ち伸びる性質のものは天に向かうように。横になびいてしだれる枝はその重みのままに。厳しい環境の中でねじまがった姿のものは、その姿を生かせる場所があります。そういうことはみんな花から教わりました」

 

草木が天然自然の姿を表現するために、珠寳さんは花瓶のなかの見えないところに心を尽くす。私たちは花瓶の上の花の姿しか見ていないが、花が自由自在に働くには土台がしっかりとしていなければならない。花の達人はここに工夫を凝らすという。

古くからあるたて花は花留として「こみ藁」(お米の藁を乾燥させて束にしたもの)を使う。こみ藁に差した枝は中で交わることなく自立して、花瓶の上にすっきりと立ち上がる。たて花の見どころは、水際立つ美しさにある。 

なるほど水際を見ると、見える世界は見えない世界に支えられていることがよくわかる。 

ある日、珠寳さんがハスの花を立てようと、水際を見つめていた時。突然、水の中に引きずり込まれて、地獄の底まで連れて行かれそうな恐ろしいイメージにとらわれたことがある。地獄をさらに突き抜けると、真っ白な何もない世界が広がっていたという。 

「花をするということは、草木の命を預かっているのだとあらためて感じました」。目に見えないものに思いを寄せることは、見えるものを生かすことにつながっている。


   無心に咲く花に自分を映す

 

  慈照寺研修道場のいけばな講座には、遠く東京や九州地方から170人を超える人たちが通ってくる。「慈照寺の花」に家元制度はなく、免状もない。「にもかかわらず」か、「だからこそ」か、年々受講者は増えている。 

 

花をする心得や規則、草木の格付などはありますが、何をどう組み合わせてもかまいません。花と向かい合うわずかの時間、人も草木と同じ、ただの命になることができます。社会で生きていく中では苦しいこともあります。そんな時、無心に咲く花に自分を映してただの命になることで、今感じている生きにくさを一段上の大自然から眺めて、くるりと明るい方へひっくり返すことができるんです。いけばなが特別なことではなく、生活をきらきら輝かせるものになってくれたらいいなと思います」 

無雙眞古流の伝書には「花は禅の温奥にかない、禅また花にかなう」とあるという。花をすることは、そのプロセスを通して、自然とともにある本来の自分を取り戻すことにつながる。 

 「20代の頃は本当に狭い世界に生きていました。慈照寺で花方をするようになって、花も虫も人間も同じ命だと思ったら、ほとんどのことはどうでも良くなりました(笑い)。震災はつらい体験でしたが、モノがなくても作務衣で生きていけると思えるようになりました。あってもなくても、どちらでも楽しく生きられるんです」 

 

   花のこころは言葉を超えて伝わる

 

平成20年から始まった地道な国際交流の取り組みが実を結び、珠寳さんは海外から招へいされることが多くなった。今年は2月のメキシコに始まり、モナコ、アメリカ、フランス、香港…と続き、海外で献花やワークショップを行う機会は増えている。 

 「献花は理屈抜きにお花のこころを伝えることができます。言葉や文化が違っても、義政公が理想とした一視同仁や、花の命をあるがままに輝かせる慈照寺の花についてお話しすると、きちんと受け止めてもらえます」 

珠寳さんはこれから国内外で積極的に献花を行い、花を立てるところをライブで見てもらおうと考えている。 

「実際に花を立てているところを見ていただくと、自分が思っている以上に何かを感じていただくことが多いようです。私自身もライブが大好き。その空間、そこに居合わせた方々から影響を受けますから、一緒にお花をしているような感じでしょうか。先日、お能の本を読んだのですが、私が花をする感覚はお能とよく似ています。花と一つでありながら、離れたところから眺めて組み立てているところは、世阿弥の離見の見と同じ。面白いなと思います」 

義政公の時代の花は、能や和歌ともつながっていたという。東山文化を現代に響かせるような、花と能のコラボレーションも見てみたいと思う。

 

 

 《プロフィール》

  神戸生まれ。慈照寺ゆかりの無雙眞古流に入門。長谷川紀玉氏に師事。 

 その後、義政公時代の花を知るため、故岡田幸三氏に師事。平成16慈照寺初代花方に就任し、坐禅と同じ目的で開かれた「花道場」で「慈照寺の花」を担当。平成20年から慈照寺国際交流プログラムを実施。平成23年4月、「一視同仁」の精神のもとに慈照寺研修道場が開場し、花方教授に。

 

  《インフォメーション》

  慈照寺研修道場 

 慈照寺研修道場では、「一視同仁」の精神のもと、日本文化の基盤となった東山文化について理解を深めてもらおうと、和歌、香道、いけばな、美術工芸、中世芸能、坐禅などの講座を開いている。 

 

 京都市左京区銀閣寺町2番地 

 http://www.ginkakuji.jp/dojo/

 

 

         (写真:片山通夫氏 文:赤坂志乃/ Lapiz2014春号掲載)