life×art interview

生命の物語に耳を傾け                           新しい神話をつむぐ

JT生命誌研究館館長 中村桂子さん


 科学と日常の違和感をきっかけに、生きていることの本質を見つめ直し、「生命誌」という新しい知のパラダイムを拓いた中村桂子さん。21世紀は生命の時代といわれているが、本当に「いのち」に根差した社会に向かっているのだろうか。ゲノムが語る生命誌は、今あらためていのちを基本にした科学や社会のありよう、一人ひとりが輝く生き方を問いかけてくる。


     ゲノムが語る生命の物語

 

生きているとはどういうことか。人間とは何だろう。中村桂子さんは、ゲノムを通して38億年の生命の物語を読み解く「生命誌」を立ち上げ、いのちの不思議に迫ってきた。

生命誌は、すべての生きものは同じ祖先から始まったというDNA研究が基礎になっている。地球上には約5000万種の多様な生物が暮らしている。あらゆる生物は細胞の中にあるDNA(ゲノム)を基にして生きている。大腸菌には大腸菌のゲノムがあり、ヒトにはヒトのゲノムがある。驚くのはそれぞれの生物のゲノムには生命の起源から現在までの歴史が刻まれていることだ。

生きものは自己創出しながら進化し、互いに生態系を作り、38億年もの時を生き抜いてきた。生物のゲノムを比べれば、生命の流れや関係がわかる。私たち人間も含めて生きものは一つにして多様であることを、ゲノムは教えてくれる。

「ゲノムは生命科学が明らかにしたDNAを扱いながら、生命全体を見ることを可能にしてくれました。生きものの共通性を見ながら多様性を見られる。今を見ながら歴史がわかる。一つひとつの分子から細胞、臓器、個体、種とさまざまな階層を見ることもできる。人類が初めて手にした生命全体を捉える切り口なんです」

自分の体を作る細胞にも長大な生命の物語が記憶され、その歴史を背景にして「もっと多様であれ」と生み出されたことを思うと感動してしまう。生命誌にはそういうワクワク感がある。


 

  日常と科学を重ね合わせる

 

生命科学の草創期からバリバリの分子生物学者としてDNAを研究していた中村さんを生命誌に向かわせたのは、生きものを遺伝子に還元して分析する科学と、実際に日常を生きている感覚とのずれだった。子育て真っ最中の40代の時だ。

 「生命科学と日常の感覚が重ならないのは何かおかしいと感じました。研究は辞めたくないし、かといって自分の気持ちはごまかせない。どうすれば科学と日常を重ねられるのだろうと悩みました。参考になるモデルが全くないのです。根がのんびり屋なので、生命誌にたどり着くまでに10年かかりました(笑)」

 科学は細分化することによって発展してきたが、DNAの最小単位である遺伝子の働きをもとに機能や構造がわかっても、生きていることの本質は見えてこない。

科学から生命誌への移行は、分析すればすべてがわかると考える機械論的世界観から、自然は自ら生成し予見不可能であると捉える生命論的世界観への転換でもあった。

例えば、DNAは2重らせん構造によって親から子にそのまま情報がコピーされていくイメージがあるが、現実には全く同じものを作るようにはできていないのだという。ミスコピーは織り込み済みで、少々間違いがあってもDNAは多様な形で生きていることを表現していく。生きものはファジーだから存在し続けきたのだ。

 

   いのちを基本にした社会を作る

 

生命誌は、生命が自己創出してきた歴史をひもとき、生きているとはどういうことかを思索する新しい知のパラダイム。中村さんはさまざまな分野の人たちと対話を重ね、生命誌の可能性、いのちに基づく社会や科学のありよう、人間の新しい生き方を探ってきた。

21世紀は生命の時代といわれる。

だが、本当にいのちに根差した社会に向かっているのだろうか。

「東日本大震災で感じたのは、今の社会は想像力が欠けているということ。人間も生きものであり自然の一部であることを忘れて、目先のことだけ追いかけてきた。経済も科学技術も大事です。だけどまず経済ありきでそのために科学技術が開発されるとしたら、いのちは生き辛くなります。いのちを最初に持ってきて、みんなが生きていけるようにしましょう、おいしくて体に良いものを食べましょう。そのために科学技術が必要です。そうやって経済を回しましょうと、社会のベクトルを『権力』ではなく『生きる力』の方に変えていきたい。これしか答えはないと思っています」

 今、中村さんは、福島県喜多方市や兵庫県豊岡市の小学校などで農業を通して子どもたちの生きる力を育てる取り組みに関わっている。「コンピューターで株を教えるより、畑でカブを育てる方が大事」が持論だ。

 「農業を経験した子どもは、生きる力が育ちます。まずどんな状況でも笑顔で動く。自分で考えて行動するので交渉力がつく。自分の言葉で語るからコミュニケーション能力が高い。この話を企業の経営者にしたらそんな人が欲しいといいます。だったら農業をやりましょうよ(笑)」

農業は食べ物を作るというだけでなく、自然に触れ、38億年の時を共有してきた生きものとのつながりを知ることでもある。

 

   ゲノムから見たアートとは…

 

 人間とは何か。そこで気になるのが、人間が生きていることとアートとの関わり。アーティストの中には生命誌に共感する人も多い。ゲノムから見たアートとは何だろうか。

「それは私が生命誌を探っていた頃からの大きな宿題です。本当に奇妙だけど、人間だけが想像力のある脳とこんな器用な手と言葉を持ち、文字を作ったり絵をかいたりしてきた。これは生命誌絵巻からちょっと飛び出さないとわからない部分でしょうね。おそらく言葉は歌うことから生まれた。人間が生まれて文化として音楽や絵が出てきたのではなく、音楽や絵があって人間という存在になったと思うんです」

 例えば、何万年も前に描かれた洞窟壁画を見て、私たちは心を揺さぶられ、第一級のアートだと感じる。

「人間の脳は今も昔も変わっていないし、昔は自然という大きな発想源があった。だから第一級のアートなのは当たり前なんです。私たちはその自然を遮断して人工の世界に生きています。農業が人を育てるのは、半分人工ですが自然の営みに触れるからです」

太古の自然は今よりはるかに壮大で神秘に満ちていただろう。人間は自然を全身で感じて物語を作り、それが神話や民話になった。その神話は今も私たちに強く訴えかけてくる。

「今私たちは、DNAのこと、銀河のこと、多くのことを自然から知りました。知った上でもう一度自然が語ることに耳を傾ければ新しい神話が生まれるのではないでしょうか。そういう神話のある世界にしたいですね」

生命誌は、新しい神話の生きもの編である。

 

《プロフィール》

1936年東京生まれ。東京大学理学部化学科卒業後、同大学院生物化学科修了。三菱化成生命科学研究所、早稲田大学教授などを経て、JT生命誌研究館館長。「自己創出する生命」、「ゲノムを読む」、「生きもの感覚で生きる」など数多くの著書がある。

 

JT生命誌研究館

大阪府高槻市にあるJT生命誌研究館では、イチヂクとイチヂクコバチの共生関係をDNAから探ったり、食草とチョウの進化の関係を調べたり、ユニークな研究が行われている。研究館では研究成果を誰にでも楽しめるように展示し、季刊誌として発表している。http://www.brh.co.jp/  

                                       

  (写真:片山通夫氏、文:赤坂志乃 Lapiz2013春号掲載)