life×art interview

暮らしのあらゆる物に美を見出した     河井寬次郎の世界を伝える

河井寬次郎記念館 学芸員 鷺珠江さん


 暮らしのありとあらゆる物や事の中に美と喜びを見い出し、おおらかで独創的な作品を生み続けた陶芸家、河井寬次郎。京都・五条坂にある「河井寬次郎記念館」は、昭和12年に建てられた住まい兼陶房をそのまま美術館として公開している。 

 記念館の学芸員で寬次郎の孫にあたる鷺珠江さんは、この家で少女時代を過ごし、当たり前のように寬次郎の仕事や生き方に触れてきた。共に暮らした頃の思い出を交えながら、「暮らし×芸術」について伺った。

 

      「仕事が暮し 暮しが仕事」


 東山五条坂の住宅街にひっそりと建つ「河井寬次郎記念館」。引き戸を開けて、細長い土間を奥に進むと、河井寬次郎(明治23年~昭和41年)がそこで暮らし、作陶に打ち込んでいた当時のままの空間が広がっている。

 河井寬次郎は、京都市陶磁器試験場で釉薬を中心に作陶技術を研究した後、大正9年にこの地に「鐘溪窯」を構えて本格的に作陶を始めた。昭和12年に寬次郎自ら設計し、郷里の島根県安来から兄を棟梁とする大工集団を呼び寄せて建てたのがこの家だ。古民家と京町家が融合したような独特の建築で、家具や調度類にも寬次郎のデザインが生かされている。 

  囲炉裏のある、吹き抜けの板の間では、新築祝いに思想家の柳宗悦から贈られた振り子時計が、今も変わらず時を刻み続けている。お正月の注連縄と餅花が一年中飾られているのは、河井家の慣わし。注連縄の清々しい美しさを寬次郎が愛し、松の内が明けても外すのを惜しんだのだという。寬次郎にとって「美」はものだけでなく、環境や暮らしぶり、生き方にまで関わるものだった。

板の間の隣には、家族や客人たちが共に食事を囲んだ堀炬燵の部屋。陶芸家の濱田庄司から贈られた箱階段を上がると、2階には庭に面した書斎と居室。室内にはごく当たり前の風景として寬次郎の作品や収集品が飾られている。

母屋から中庭をはさんで、小さな茶室のような部屋、素焼き窯、そして陶房。その奥に今は珍しい登り窯が残されている。

 

「当時は、祖父母の寬次郎とつね、一人娘の母と父、そして私を含む姉妹3人に、陶芸を手伝う書生さん、行儀見習いに来ていたお手伝いさんが暮らす大所帯でした。毎日、寬次郎を訪ねてお客さんが来られるのでいつもにぎやかで、ハレの部分の多い家でしたね。寬次郎は人が喜ぶことをうれしく思い、作品を気に入られるとすぐに差し上げていました(笑)。その頃の雰囲気を思い出すと、豊かな時間が流れていたなと思います」 

 

中庭を吹く風にのってどこからともなく、寬次郎が濱田庄司や棟方志功らと談笑する声が聞こえてきそうだ。

「仕事が暮し 暮しが仕事」という言葉そのまま、この家は寬次郎の「美」を育む母体となった。

 

 「今日は柿の種だね」 

 

寬次郎は、一人娘が生まれた時に中庭に植えた藤棚の下で仕事をするのが好きだったという。そして孫の珠江さんを見かけると、いつも二種類のうちのどちらかの言葉をかけてきた。 

 

「今日は、柿の種だね」

そうでなければ、

「今日は、メロンの種だね」 

 

謎解きのようだが、硬くてしっかりしている柿の種は「元気いっぱい」、白くて柔らかいメロンの種は「元気がなくて弱弱しい」という意味だとか。 

 

「その時は、なんとも思わず聞いていたのですが、子どもを未来の可能性が詰まった種に例えるところが、寬次郎らしいなと思います。好々爺のように、べたっとかわいがられた記憶はないんですが、今思うと、同じ生命体として尊重されていたように感じます。人を区別しても、差別することはなく、誰に対しても対等でした」 

 

寬次郎は、「同じ底辺を持った無数の三角形―人間」という言葉を残している。鋭角、鈍角、角度はさまざまでも底辺は一緒。それぞれ違って、みんな同じ人間という考えに貫かれていた。

まだ幼かった鷺さんがままごと遊びをしていた時のこと。ふいに部屋に入ってきた寬次郎が、小さな玩具用の陶器のコーヒーカップに目を止めて、涙ぐんだことがあったそうだ。 

 

「母が陶器市で買ってきた輸出用の安いミニチュアの食器だったようですが、カップの持ち手にかわいい小鳥がとまっているのを見て、祖父はとても感動したようです。安い賃金で量産されている玩具でも、職人はひと手間かけて子どもたちに夢を与えていて素晴らしい。自分たちの仕事ももっと勉強しなければ、この玩具の陶器に対して恥ずかしく申し訳ないと、目をうるませて母に語ったそうです」  

感受性が人一倍強く、無名の職人による工芸の美を尊んで、自らも素朴で力強い生活陶を数多く生み出した寬次郎の人柄が伝わってくるようだ。  

  家族の荷物が増えたため近くに引っ越してからも、鷺さんは多くの時間をこの家で過ごした。登り窯は、火が入っていない時は子供たちにとって格好の遊び場だった。かくれんぼをしたり、美しい陶器の破片を拾ったり。だが一旦火が入ると、そこは聖域に変わり、子供心に近づいてはいけないと思ったという。窯焚きの時は、家中が高揚感に包まれていた。

 

  見ていただくより過ごしていただきたい

 

 記念館には、寬次郎が生きていた頃の濃密な時間が記憶されている。実際に使われていた書斎机に触れたり、椅子に座ったりでき、来館した人それぞれが、寬次郎が好んだ美しいものや暮らしぶりから何かを受け取っているようだ。

 

 記念館の学芸員でもある鷺さんは、「遺族で守っている美術館なので、見ていただくよりは過ごしていただく場所にしたいと、開放感を大切にしています。ものは使ったり触ると壊れたり変化しますが、それも自然なこと。寬次郎自身が形あるものはいずれ無くなるという人でしたから。今は値段が高くて使いにくくなりましたが、展示している陶器もここで使っていた感覚を含めてご説明している気がします」と、おおらか。

 展覧会の企画を手がける中で、寬次郎の抹茶椀を使った気軽な安来流のお茶会を開くこともある。参加した人は、そのあとに美術館に作品が並んでいるのを見ると、今までと違った感覚で身近に感じるようになるという。

 

 「河井家では寬次郎の器も陶器市で買った白無地の食器もこだわりなく使っていました。寬次郎は生き方を含めて民芸の精神が根本にあって、仕事と暮らしが一体化し、美しいものと暮らしが融合していました。その中から芸術に高められたものも生まれている。生活と密接につながり合った芸術のあり方は自然で素晴らしいと思います」

 

  科学者の眼」と「詩人の心」

 

  民芸運動を推進し、日本近・現代の陶芸界に大きな足跡を残した、河井寬次郎。学芸員として寬次郎の魅力は何かと聞かれたら、「『科学者の眼』と『詩人の心』の両方を絶妙なバランスで持ち合わせていること」と、鷺さんはいう。 

 

 「ともかく仕事が多種多様で、質・量ともに膨大。点数でいくと万単位の仕事を残しています。東洋古陶磁を範とした初期、用の美を形にした中期、用の美の枠を超えて独自の世界に突き抜けていった後期と、何人もの陶工の仕事を見ている感じがするぐらい。陶器だけでなく、木彫、デザイン 、書、言葉…と、人間の引き出せる最大限の可能性を見せてもらっている気がします。寬次郎がなぜそれだけ膨大なものを生み出せたかというと、執着がないからなんです」        (鉄釉筒描彩釉壷1954年頃)

 

 苦労してある技法を生み出しても、完成したらすぐ次の興味に向かう。自分で自分を縛らないから、どんどんバリエーションが広がっていく。言葉通り「新しい自分が見たいのだ―仕事する」人だった。

 

 「寬次郎にとってお師匠さんに当たるものは世の中のありとあらゆるもの。自然でも産業品でも面白いとアンテナに引っかかるものが栄養となって、作品になり言葉となって出てきている感じがします。ただ技術だけ、感性だけではできない。両方がうまく備わってこそできた。そこが作家としての面白さですね。何より形となったものの根本にある寬次郎の精神性、目に見えない世界が、多くの人を引き付けているのだと思います」 

 

 あまり知られていないが、寬次郎は丸いものが好きだったそうだ。記念館に展示されている愛用の懐中時計も球体、数珠もまん丸。中庭の丸石は、郷里安来の友人が新築祝いに石灯籠を送ろうとした時、「それなら丸い石が欲しい」とリクエストしたもの。しばしば庭をころがして位置を変え、丸石と庭がかもす風情を楽しんでいた

 

作品の中にも球を取り入れたものがいくつかある。 

 

 「球体には河井寬次郎の宇宙観、死生観のようなものがある。そこに大いなる力を感じていたように思います。寬次郎が創作を通して見つめていたのは、自他合一の世界でした」

 

  生命の本質は喜びでしかない

 

 「すべてのものは 自分の表現」 

「美の正体 ありとあらゆる物と事の

 なかから見付け出した喜」

   「この世このまま大調和」

 

 寬次郎は多くの言葉や文章を残している。生前から言霊を大切にし、不平、不満や愚痴を言うのを家族は聞いたことがなかったという。寬次郎の言葉の中でも鷺さんが最も好きなものが、亡くなる直前に残した「饗応不尽」だ。 

 

   「饗応不尽」 

 

 無数のつっかい棒で支えられている生命

 時間の上を歩いている生命

 自分に会い度い吾等

 顧みればあらゆるものから歓待を受けている吾等

 見つくせない程のもの

 食べきれないご馳走

 このままが往生でなかったら

 寂光浄土なんか何処にあるだろう  

 

 「寬次郎は、どんなにつらかったり悲しかったりしても、生命の本質は喜びでしかないと言い切っています。河井家で有形無形に影響を受けた最大のものは、喜びの精神かもしれませんね」 

 

 

《プロフィール》

  河井寬次郎の一人娘、須也子と河井博次の三女。昭和32年に京都市に生まれる。同志社大学文学部卒。現在は河井寬次郎記念館の学芸員として、祖父・河井寬次郎にかかわる展覧会の企画、出版、講演、資料保存などに従事する。  

 

 

 

 

《インフォメーション》

  河井寬次郎記念館

 京都市東山区五条坂鐘鋳町569

 ☎075(561)3585

 午前10時~午後5時(入館受付は4時半まで)

 月曜休館(祝日は開館、翌日休館)、夏期・冬期休館あり(要問合せ)

 

                      ◇

 

今年、開館40周年を迎えたのを記念して、「河井寬次郎の陶芸~科学者の眼と詩人の心~」展が、東大阪市を皮切りに各地で開催されている。

7月13日(土)~9月1日(日)東大阪市民美術センター

10月5日(土)~1124日(日)、愛知・瀬戸市美術館。

1130日(土)~2014年2月2日(日)、広島・はつかいち美術ギャラリー。 

 

   (写真:片山通夫氏 写真提供:河井寬次郎記念館 文:赤坂志乃/ Lapiz2013秋号掲載)